以前、介護職の職場の人からこんなことを聞きました。
「学校で実際にオムツを履いて、排泄するまでトイレに行かない、という体験があった」
詳細はわからないですが、身体介護を行う介護士ならでは(?)だなあと感じました。
私の場合は理学療法士なので、授業でほんの少しだけですが片麻痺の動かしづらさを体験する、みたいなものがありました。
以前書いた記事の「最高のリハビリについて考えてみる(後編)」では患者が医療その他の知識を体験として知ることの重要さを提案したわけですが、逆に「治療者が患者の体験を知る」こと、これは文句なしに大切なことだと思います。
理学療法士──リハビリ職は患者さんの生活について考えるので、その意味を知らなければいけないわけですからね。
「食事」という行為は教科書で習うのは上肢の可動域が必要で認知機能も影響することであって、嚥下機能も必要でFIM(評価法)の採点は──といった具合ですけど、患者さんにとってはまず人間としての生命維持行為で、それぞれの味の好みがあって、人によっては食べ過ぎで病気になるくらい人生の重要な意味を占めていて、宗教観の違いも影響するのですから。それができなくなる「意味」を経験しなければならない。
別にここまで大層な意味を考えたわけではないですが、いくつか自分で経験しようとそういった状況を設定したことがありました。思い浮かべるの「外へ出れなくなること」についてです。
当時、介護療養病棟で外に出れない方が多く、「外気浴(病院の外に出る・散歩をすることです)にどこまでの意味があるのだろう?」と思ってのことでした。たまたま休みと有給が4日間ほど重なったので、家族にも協力してもらって「家事はするけど一切家から出ないからよろしく」と、本当に最低限以外は部屋から出ないようにしたのです。
もちろん体はピンピンしていますし、インドアの趣味も持っているのでその意味では患者さんとは想定が全く違います。ただ久しぶりに出勤のために家を出て朝日を浴びた時の解放感ったらなかったので、少なくとも私自身は目的を達成することができました。
患者さんのことを身をもって知る。そうでなくても知ろうと思考の限りを尽くすこと。仕事に限らず純粋な経験としても、意義あるものだと思います。将来、自分たちも「そうなる」かもしれませんから。